久しぶりに悩んだ
最近は勉強ばかりで悩む事はほとんど無かったのですが、今日久々にちゃんと悩みました。
悩むと眠れなくなりますよね。
ただ今回はその悩みの種についてではなく、悩むってどんなこと?という目線で話していこうと思います。
私が高校1年生の頃は、実に悩んで悩んで悩みまくった時期でした。
特に勉強もせず、その間に親は離婚し、大した目標もなく暇だったこともあり、とにかく私は思考に時間を費やしていました。
悩んでいた内容なんて覚えていないですが、悩みまくっていたことだけは覚えています。
新居で夜遅くまで毎日哲学者のように気を狂わせながら思考することにふけていた日々は、贅沢で貴重な経験だと思いました。
そしてさっき思ったのですが、激しく考え方が変化した中3から高1に対して、全然悩んで来なかった高2、そして今、私の考え方というのは高1の頃から経た時間に対して変化量がだいぶ少ないなと感じました。
勿論、変化の総量として、高1の私と今の私の考え方は大きく異なります。
変化の割合が異なるのです。
まだ17年ちょっとしか生きていない身なので、考え方というのが考える量に比例して変化してゆくのか、それとも年齢による差異が生じているのかという区別はできませんが、私の感覚的には前者な気がしています。
最近の私は名目の利益に目を奪われていたのかもしれません。
思考というのは直接的な利益を生むものではありませんが、中長期的には非常に価値のあるものを生み出す行動です。
しかし勉強さえしていればよいという極めて平和な環境に居たからこそ、私は本気で苦労することを忘れていたのです。
実はさっきまで悩んでいたことというのは、『「本気」とは何か、どうしたら出せるのか、出す方法に囚われる必要性、むしろ本気を思索することが本気に繋がるのか』という課題でした。
2時間ほど考えても結論はちゃんと出ませんでした。
ただ、悩む事自体が久しぶりの体験であり、新鮮だったのです。
複雑なテーマを媒体にしてもう一つ向こうの結論を出すことができていました。
日常の刺激は過激なくらいがちょうどいいです。
思考というのはその刺激を生み出す手段の根底にあるものではないでしょうか。
私の目標は成功や幸福、充実感を日々忘れずに人生を過ごしきることなので、刺激を生み出すための行為はやはり怠ることはできないなと思いました。
高1の一年間と高2の一年間の長さは体感的に数倍違います。
実質的な長生きをする為に刺激を求め続けることが大切なのだと思います。
まとまりの無い文章で申し訳ないです。いつも読んでくださる方には感謝の気持ちでいっぱいです。