そろそろ死生観でも。
今までの僕には迷いが多すぎたなと感じ、こないだ自分の死生観を考えることにしました。
未来に向かって生きているというこの状況を自分なりに解釈することによって、自分の人生の軸を定めようという試みです。
以前の記事で「この世界」が何なのか自分なりに答えを出しましたが、今回はもっと主観的に「その世界にいる自分」は何なのかの答えを出してみました。
ではまず、この訳が分からない状況を解釈するために投げかけることのできる疑問は次の二つです。
- 「何のために」生きているのか
- 「何が原因で」生きているのか
いつ、どこで、なにを生きているのかというのに対する僕の考えははすべてさっきの記事に書いてあります。
二つ目の”原因”ですが、これは分からないし解決が次につながる問題ではないと判断しました。
なぜかと言うと僕とあなたが生きている理由は両親が産んだからであって、その両親もその両親が、と繰り返すと「動植物はどうして遺伝子をコピーしたがるのか」という問題に収束するからです。
これは僕の死生観には全く影響がないと思いました。
それでは一つ目の「何のために」生きているのかですね。
あなたは何を目的に生きていますか?
目的について考えるときに注意してほしいのが、「”行動”の目的と”存在”の目的は種類が異なるということ」です。
具体的に言うと、結果を求めて起こすのが行動なのに対して、認識によって目的を与えられるのが存在です。
飯を買うためにスーパーへ行ったりと前者については直感的に理解できます。
後者の例は ”交差した二本の刃物” ですね。
これをあなたは ”はさみ” と呼びます。
でもそのはさみを私たち人間が使わなくなってしまってはそれに意味(価値)はありません。
つまりは人間がものを切るためにそれを作り利用しているからはさみとして認識されているのであって、そこら辺のネズミにとっては単なるかたいものでしかないのです。
はさみが存在している目的は製作者である人間によって与えられているという考えです。
ここまでで二種類の目的について分かったと思います。
僕たち人間というのは行動ではなく存在でしかないので、どういった認識をされているのかと考えていきます。
はい、ここで皆さん感じたと思いますが、あなたがどう捉えられているかは問題にすることはできません。
なぜかというとはさみがネズミと人間によって認識のされ方が違うように、一人の人間もそれぞれの人間、神、未確認生物...によって捉え方が違うからです(神以降の存在については興味ないです)。
そもそも認識される側に立つことが間違えているのです。
ということでこの二つの疑問は主観での決定的な解釈はできないなと思いました。
もうこれ以上僕たちの存在に疑問を投げかけるのはやめです。
さっきから何回も紹介している記事にも書きましたが、僕たちの脳が考えることはすべてこのゲームのメカニズムによるものであり、
人間って一体全体何なんだろうという疑問が生まれるのも必然と解釈します。
結論
考えるべきものはもうない。自由に生きよう。
この記事を読んでくれた人にはわかってもらえると思いますが(何度もすいません)、
せっかく願望を持って生まれたのだからそれを実現するのが楽しけりゃそうしたらいいってことですね。
今回自分が立派な死生観をすでに持っていたということに書きながら気付けました。
高校の倫理の先生に会いたすぎる。
読んでくれてありがとうございます!